こんばんは。
金曜日は、翻訳に関する本です。
(また、会社仕事が終わって寝落ちしてしまいました・・・・・・。19時更新はできなかったけど、せめて本日中に投稿!)
青空文庫で昔の翻訳者エッセイを読む
無料で名作文学を読めるサイト「青空文庫」。著作権が消滅した作品や、著者の許可が得られた文章が公開されているのですが、「翻訳」と検索してみると、かつての翻訳者たちによるエッセイや随筆がいろいろと出てきます。
このブログでも以前、幸徳秋水の「翻訳の苦心」を紹介しましたが、古い時代の翻訳観に触れられるのはなかなか興味深い体験です。

文字数も少なくてサクッと読める上、今では生成AIの力を借りれば難解な文語調や旧かな遣いもスムーズに現代語訳でき、気軽に楽しめるようになりました。
本日は、劇作家・小説家・評論家・翻訳家・演出家と多彩な顔を持つ岸田國士(きしだ くにお)の随筆『翻訳について』をご紹介します。演劇好きの方なら文学座の創設者としてご存じかもしれませんし、広くは女優・岸田今日子さんのお父様と聞けば、ピンと来る方もいるかも? 「リアルムーミンパパ」は翻訳者だったのですね!
翻訳は「自分のため」にやるもの?
岸田國士は、「翻訳という仕事は、翻訳者自身のためにするものだ」とはっきり言い切ります。誰かに読んでもらうためでも、報酬を得るためでもなく、自分自身が学び、鍛えられる行為だというのです。
翻訳といふ仕事は、いろいろ理窟のつけ方もあるだらうが、大体に於て、翻訳者自身のためにする仕事なのである。翻訳を読んで原作を云々するのは非常に危険だといふやうなことも云へるし、また翻訳は一つの文化事業であるといふやうな口実もあるが、翻訳そのものは金になるならないに拘はらず、誰でもやつてみるといいのである。
翻訳するといふことは、原書を少くとも十遍繰り返して読むことである。
翻訳をやつてみると、自分の語学力の底が知れるのである。
翻訳をしながら、おれはこんなに日本語を知らないのかと思ふだけでも、たいへんな薬になる。
翻訳はある意味で「自分を試す修行」のようなもの。原書を何度も読み込み、日本語力にも真正面から向き合う。そんな中で、自分の力不足に気づくことが、すでに大きな収穫なのだと語っています。
もちろん、クライアントや読者・視聴者をおろそかにしてはいけませんが、昔も今も、「たいへんな薬になる」ことを楽しめるかどうかが、翻訳を続けられるかのカギなのかもしれませんね。
文体神話は危険?
「原文の味をいかに日本語で再現するか」というのは、翻訳の世界でよく語られるテーマです。でも岸田國士は、その幻想に冷静な視線を投げかけています。「フランス語の味をそのまま日本語で表現するなんて、そもそも不可能」と、バッサリと切り捨てるのです。
翻訳の理想は、意味を正確に捉へる以上に、日本文で原文の味ひを出すことにあるとされてゐるやうだが、それも、ただ、さう思はせるだけのことで、日本文で、例へば仏蘭西文の味ひなど出せるものではない。
モンテエニュならモンテエニュの文体といふものは、仏蘭西文でなければならないものなのである。(中略)
文章のリズムと、その正確なイマアジュなるものは、断じて翻訳には適せぬものである。ただ、甲の美を乙の美に置き換へる技が、翻訳の純文学的営みなのではないかと思ふ。これは、それ故、翻訳に於ける一種の翻案的部分とも云へるのである。
たしかに「味わい」を完全に再現するのは難しい。でも、だからといって翻案に偏りすぎるのも……と読みながら思っていたら、岸田もそのあたりの危うさにきちんと目配せをしています。
危険なコオスを択ぶ登山者の気持がなくもない。心配する親がゐるわけである。
翻訳には大胆さも必要だけど、慎重さも欠かせない。その両極の感覚――「登山者の冒険心」と「親の心配」を、自分の中に同居させて、いつも最適なバランスを探っていきたいですね。
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