こんばんは。
金曜日は、翻訳に関する本です。
昔は「翻訳」は軽蔑されていた?
我々は我々の書いたものを互にもっと読むようにしたいと思う。私は必ずしもそれを尊重せよというのではない。正直に云って、日本の学界の水準は西洋の学界の水準よりも低いことを認めねばならぬ。そしてものがそれの本質的な価値に相応して尊重されるということは正しいことであり、善いことである。私の求めているのは親切である。日本人は日本人の書いたものを互にもっと親切に読むようにしたいと思う。
本日は、哲学者、評論家の三木清(みき きよし)の随筆『軽蔑された飜訳』をご紹介します。ドキッとするタイトルですね。
幸徳秋水の「翻訳の苦心」、岸田國士の『翻訳について』と続いてきた、青空文庫で読める昔の翻訳者エッセイシリーズの一冊です。


明治・大正・昭和を生きた三木清は、当時の日本が欧米に比べて学術的に遅れていることを自覚したうえで、それでも日本語で書かれたもの、日本語に訳されたものが正当に扱われていない現状に目を向けます。
1931年の執筆で、哲学という特殊な分野ではあるものの、いまも極端に欧米志向や外国語第一主義になっていないか?など考えさせられた一篇でした。
自国語訳の意義
三木清は、翻訳の意義は「読めない外国語の内容を伝えること」だけにとどまらず、外国語の思想が自国の言語と結びついたときに生まれる意味や可能性にこそある、と語っています。
哲学者ライプニッツもその必要を大いに認めた飜訳というものの意味は、外国語を知らない者にその思想を伝達することに尽きるのではない。思想と言葉とが密接に結合しているものである限り、外国の思想は我が国語をもって表現されるとき、既にもはや単に外国の思想ではなくなっているのである。意味の転化が既にそこに行われている。このときおのずから外国の思想は単に外国の思想であることをやめて、我々のものとして発展することの出来る一般的な基礎が与えられるのである。
それをふまえると、たとえ翻訳に不備があったとしても、翻訳書を読む意義はあると三木は言います。
彼等は飜訳書を軽蔑することをもって学者の誇であるかのように考えている。なるほど、どのような飜訳も、飜訳たるの性質上、不正確、不精密を免れない。誤訳なども多い。しかしこのような欠点は語学者や註釈学者にとっては最も重大な性質のものであって、自分で考えることを本当に知っている者にとっては何等妨害とならないのみか、そのような不正確、不精密、誤訳から却って面白い独創的な思想が引出されている場合さえあるのである。これは少し綿密に思想の歴史を研究した人には容易に認められ得ることである。 私は固もとより誤訳の出現を希望する者ではない。寧ろ正反対である。しかし私は今日学問する人が、先ずもっと我々同志の書いたものに注意すると共に、次に日本語になった飜訳書をもっと利用することを希望せずにはいられない。
自国語に、もっと愛を
原書を第一とする「原書癖」は、現代でもどこかに残っているような気がします。そして三木清の文章を読むと、自動翻訳の進化に対する向き合い方にもヒントがあるように感じました。
原書癖にとらわれて飜訳物を軽蔑し、折角相当な飜訳が出ているのに読まないで損をしている学徒も多い。どんなものでも原書で読もうとしているために、自分で考える余裕を奪われている人もある。なんと云っても飜訳なら速く読める、その上飜訳書はその内容の要領を掴つかむ点から云っても便利である。原書癖を矯正することによって得られる利益は想像されるよりもずっと大きいだろうと思う。
三木清の言う「学者」のようにならないよう、自戒を込めて引用し、本日はここまで。
然るに我が国の学者は少くとも同国人のものをあまり読まなさ過ぎるのではないか。
これには色々な理由があろう。しかしその一つが日本の学者の多くは自分の国の言葉を愛しないというところにあるのは確かなように見える。言葉を愛することを知らない者に好い文章の書ける筈がない。悪文、拙文は我々の間では学者にとって当然なことであると思われている。あの人は学者にしては文章がうまい。などと平気で語られているのである。
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